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ネットワークビジネスに参加する前はどんな仕事をしていましたか。
1987年は、まだバブル全盛期でしたので、素直に卒業後は、「就職するもの」だと思っていました。強い憧れから、「エアライン」か、当時隆盛の、「銀行、証券」で、選び、結局、オフィスが素晴らしかったのと、待遇の良さ、から外銀にしました。大学卒業まで、「英語漬け」の毎日でしたので、就職後2年間は、”花のOL”をしていました。それから、「アリタリア航空」イタリア人営業部長付き秘書、という事で、(外銀オフィスから、向かいに有りましたので、面接もラクラクでした)転職し、大学時代からのフィアンセが、イラクに勤務していましたので、近くに行こうと思い、1年でアリタリアを辞し、バーレーン(イラク隣国)で、ヒルトンホテル内の和食レストラン「慶」に、日本女性で、英語が出来る、という事で、マネージャーとして赴任。フィリピン、タイ、インド、の出稼ぎのスタッフ30名以上を、経験ゼロ、若干26歳で、統率する事になってしまい、最初は、自分で着物も着れず(着物着用でした)、かなり馬鹿にされていました。そこから徐々に、人を管理し、自分の力を信じる事を体得した気がします。湾岸戦争で、バーレーンも多国籍軍の発信基地になっていましたので、半年で、エジプト経由で帰国しましたが、日本に帰って来た時は、あの「OL」だった私は、何処にもいませんでした。それから、フリー通訳として、有限会社「メドフェインターナショナル」を起こし、財団法人立ち上げスタッフ、新日鉄などの通訳、翻訳、人材派遣など、業務を拡大していき、体力も十二分に有ったので、思う存分、人生で一番働きました。海外や国内に不動産を買ったり、とにかく、フィアンセとの夢が有りましたので、無我夢中で、来た仕事を全て請け、翻訳、通訳、はもとより、英語講師や、短大や大学で通訳の講義をしたり、日立などの企業研修講師になったり、と一人何役もこなしました。一時は、待遇の良さから、今有る仕事に加えて、塾長候補として、就職し、親会社の「ニュートン」(科学雑誌で有名)の英語科主任として、難関受験英語の教材や、TOEIC教材をたくさん作りました。徹夜が続き、血尿が出たり心臓が痛くなった事も有ります。本当に、よくあれ程、仕事したもの、と今更ながら、驚きますが、人間、「夢」が有れば、何でも出来るものです。それまで、ひたすら働きづめの日々が過ぎ、1997年、ある日、10年来のフィアンセと破局し、心がボロボロになり、仕事もウワの空。人生で初めての「大挫折」を味わいました。あんなにバリバリやって来た仕事に意義が見出せなくなり、集中力が出ない、ニュートンの仕事その他にも大・支障が出てきて、こうなったら、(持ち前の潔さで?)環境を変えないと自分がダメになる、と決意し、完全に独立!を決めたのが、その年の末。1998年は、やりかけの仕事を大量にもらって、年商2千万円くらいで、良かったのですが、翌年1999年は、日本も大不況が続き、100万円以上の翻訳代金で支払いを受けられなかったり、友人の経営者にお金を貸して、結局戻らなかったり、会社の連帯保証人になって、危うく、3百万負債を背負いそうになったり、、、と踏んだり蹴ったりの毎日で、こんなに自分が経済的に辛い目に遭うとは思いませんでした。ただ、そのお陰で、メソメソしているヒマが無くなり、精神的な打撃から、立ち直る、本当に良いキッカケを与えてくれた、と思い、今は、その様々な試練に感謝しています。その1998年7月31日に、当時USANAで、飛ぶ鳥落とす勢いだったKen
Seto に、「USANAの話を聞きたいので、通訳募集」をしていた日本の男性の告知板をインターネットで見て、私の次のキャリアとなる、USANAとの出会いが始まりました。
"Everything happens for a reason"(全ての事は、起こるべくして起こる。)と、最初に成田空港に出迎えに行った私に、Kenは、暗示的な話をしたな、と思うのです。 |
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