Sponsorship / 2004 (C) Network business future hall.

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挑戦者たち第3回は稲葉 潤氏である。
23才と言う若さで、夢の実現を追い求め渡米。起業家として成功をおさめる。
現在は『USANA』ネットワークビジネスをライフ・ワークとして世界で活躍中。
今もなお、夢の拡大に力を注いでいる。
今回、彼の幾つもの挑戦の記録を公開していただけることになった。
なぜ、こんなにも真直ぐに突き進むことができるのだろうか。
その原動力はどこからくるのだろうか?
インタビューを通して真相を探ってみたい。


稲葉 潤プロフィール

■ プロフィール1958年東京都品川区に生まれる。
15歳で飲食業に就く。
1981年23歳の時に渡米、日本食レストランへ就職。
1985年グリーンカード取得。その後永住。
1985年副業で「J-Dreams」を立ち上げ、衣料などの輸出を始める。
1992年バブル景気の崩壊から「J-Dreams」は倒産。
1994年インターネットに注目し、新たに「ITN/International Team Network」を立ち上げる。
1999年ユサナ社と出会い、現在に至る。

■ その他プロフィ−ル
漫画「巨人の星」に刺激され、小学校はリトル・リーグに参加、長島茂男を目指す。中学校では水泳、陸上競技大会に選抜され記録を残す。また、バスケット、バレー・ボール、そしてテニス部にも所属し、日々スポーツに明け暮れる。16歳の時、衝撃的な出合いでサーフィンを始めるも、友人の不慮の事故死を機に海から陸に上がる。その後、ディスコで踊る事に生き甲斐を感じ、これがアルバムの収集の始まりとなる。渡米する前はハワイ定住に憧れ、しかし、試みるも仕事に就くことが困難な為、18歳〜23歳までの約5年間は仕事で帰国、そして貯めてはハワイという生活を繰り返す。

■ (自己PR)
先に、貴社ホームページコンテンツの一つ、「NBの挑戦者たち」で紹介されることに心から御礼申し上げます。素晴らしいNB挑戦者が多く居る中、私に何が語れるか?正直悩みました。皆それぞれが選択した道(NB)は違っても、目的地は同じだと思います。私もその目的地に辿り着く迄、日々「挑戦」を繰り返している一人です。まだ経験が短く未熟者な私ですが、本誌を読まれ同じ「挑戦者」の方々に共鳴して頂けたら幸いです。また、NB未経験の方が見られたならば、この機会に是非いろいろな角度からNBを調べて下さい。私もその一人でしたが、調査する時間は決して無駄にならないと信じます。一期一会を大切に、と記して終わります。

稲葉 潤
稲葉さんへの応援メッセージはこちらへ

以下掲載の写真をクリックすると拡大表示できる写真があります。
■稲葉 潤氏の挑戦記録
■プロフィールを拝見いたしまますと、
早い時期に憧れのアメリカに移住され、現在も活躍中の稲葉様ですが、
渡米する迄には色々な原動力となる源があったことと思います。
まず、激動の挑戦の一歩は10代のようですね。10代半ばと言えば、将来の事等、決められない方が多い中、沢山のアルバイトも経験され、また15才で飲食業にも入られていたということですが、なぜお仕事をしようと思ったのですか?


単純ですよ。頭悪かったのでね(笑)すぐ仕事という感じで。発想は簡単なのです。
実は、勉強が嫌いでしたから、高校は都立一校しか受けなかったのですが、
すんなり受かってしまい、その年の2月以降すごく暇になってしまったのです。

ですから15才の中学校の卒業式前に、仕事を始めてしまったのです。
そこで「あっ、これをすればお金がもらえるじゃない?」と言うことがわかったのです。
お金を得ると人って、また違った発想がでるでしょ。
勉強はすぐにはお金にならない、しかし、仕事をすればお金を貰えるということに気がつきました。

一番初めに就いた仕事先は地下1階、地上7階建ての自社ビルを持つ、エンターテイメント総合会社でした。ビル5階までビル・オーナーが店舗を構えており、私は2階にある喫茶部のキッチン・ヘルパーと言うことで就職しました。が、その後人手不足もあり地下のキャバレー、1階パチンコ・フロアー、そして最後に5階のサウナ風呂・フロアーの清掃まで受け持ちました。
その時のスケジュールは朝7時入りの夜中2時上がりから、家は近かったのですが、そのまま帰らずにサウナに泊まって、また、朝7時に仕事というような感じで、明け暮れていました。




■仕事の中で影響を受けたことはありますか?


この会社の専務と言う方が、当時では珍しいアメリカ留学帰りの人で、凄く驚いたのですが、
当時テレビ局にしか無かったような時代に、「ビデオ・デッキ」という物を持っていて、さらに驚きました。

そのビデオ・デッキで初めて見せて貰ったのが、アメリカのグラミーショーというもので、
1年に1回行われる音楽界の大賞受賞式でした。
ビデオはその年、1974年に行われたもので、最優秀賞に輝いたグラディス・ナイト&ザ・ピップスという、黒人兄弟グループが受賞した映像に大変感動し、それ以来、黒人音楽に魅せられて、
もの凄くファンになってしましました。
ここで働いていた期間、特にこの専務から色んな意味で物凄く影響を受けました。



■アメリカへの憧れは、いつ頃からどんな事で強くなっていかれたのでしょう。

そもそもアメリカへの憧れは、小学校の時、初めてコカ・コーラを飲んだ時ですね(笑)
こんなに旨いものがあるなら、そこがいいなという単純な発想と、母が比較的洋楽やアメリカ映画が好きで、家の中ではいつもそういった音楽や映像が流れていました。
チャンネルの主導権は親にありましたから(笑)、それが自分の中でも日常になっていました。

当時、夕方放送されていたアメリカのドラマ番組で「パパ大好き」というのがあり、それを見ると家は広いし、何でもオートメーション化され、車も大きてカッコよく、また道はどこまでも広く、果てしなく続いているはで、本当に憧れを持ちました。またもう一つの要因として、従兄弟が立川米軍基地の脇の団地に住んでいて、泊りがけで遊び行った時など、よく基地内に住む子供と出会いました。相手がアメリカ人と言え子供同士でしたから隔たりが無く、すぐに打ち解けて遊ぶようになり、スーパーマン等のコミック雑誌と少年ジャンプとを交換したり、また見たことも無い珍しいお菓子を貰ったりと、自然に交流が出来上がっていました。

今思うと、そういった子供の頃に受けた様々な影響からか、成長する過程に措いて、自分の中の視点がどんどんそちら側に向かって行く流れに繋がり、いつか必ず行きたいなという気持ちになって、最終的には、渡米するという強い思いに繋がって行ったのだと思います。

その後も色々な飲食業で仕事をしていて、次に興味が出て来たのが、アメリカのマクドナルドでした。日本に初めて出来て、是非働いてみたいと思い、年令が達し、申し込みに行き、働くことになりました。
驚いた事に「マニュアル」という、日本では聞いたことも無い、厚いトレーニング本があって、それを手渡されました。さらに驚いた事に、割り振られた自分のロッカーの扉を開けると、ピースマーク(^_^)が鏡にはってあり、このマークと同じ笑顔の練習をして下さいということが、マニュアルに示されていました。
御存知のようにマクドナルドでは、スタッフが皆同じように笑顔でお客様に対応していますね。
今思えば、「ああなるほど、システムと言うのはそうやって活用されて行くのだ」と理解出来ます。当時では珍しかった欧米のシステム導入によって、高校生が昨日入社しても、そのマニュアルを使うことによって、年令に関係なく、能力によって判断されることにより、時給が1週間で変わって来ます。年功序列の社会である中、ここでは歳が若くても頑張れば、正当な評価を受けられるということに驚きました。そういうシステムの社会があることを知って、なおさらアメリカ行きの思いが、自分の中で強くなってきました



■語学の点では不安は無かったのでしょうか?

基本的に勉強は嫌いでした。けれど英語に関してだけは大好きでした。
偶然ですが、小学校の時に、UCLAの医学博士を父に持つ子供が日本に帰って来て、たまたま私の通う小学校に転校生としてやってきました。
裕福だった彼のお父さんが、御自分のコネクションを使って、子供向けの英会話教室を、自宅を解放して開いてくれていました。お父様の関係者がみな諸外国の方で、当時で「もちろん講師はみんな外国人!」(日本でこういうコマーシャルがありましたね)でした。
ですから、このクラスに入った瞬間から、英語以外は禁止。中学生程度の英語は既に生でそこで学んでいました。書くというより主に会話が中心でしたね。

その後、中学に入学して、英語の授業を楽しみにしていたのですが、教科書を開くと、今ではお馴染みの『This is a pen』で、生の英語を外国人から学んで来た私にとっては、物足りませんでした。はっきり言ってつまらなかった。そしてさらに英語の勉強をしなくなるきっかけとなった出来事がありました。それは中学1年の時、遠足の為に乗った電車の中に外国の方がいたので、
私が英語の教師に「先生ちょっと話し掛けてみてよ!」って言ったのですが、
その先生の英語が通じなかったのです。

その様子を見て、愕然としました。「このまま学んでもだめだろう」って思ってしまい、勉強しなかったので自慢じゃ無いけど成績悪かったのです。(笑)
そのかわり、黒人音楽などに関しての歌詞や、映画の台詞など興味を持って好きになったことは、辞書を使って必死に覚えていました。そういった生活の中から、どこかに習いに行ったとか、
先生について貰ったとかでは無く、全くの独学で英語を覚えました。



■旅立ちの決意は?

18才で車の免許を取って、すぐに行ったのがハワイでした。波乗りの経験もあった私は、ハワイに行った瞬間単純にそこが気に入って、ここに住みたいと思ってしまいました。
しかし、ワーキング・ビザがないとあちらで定職の仕事に就くことが難しかったのです。
でも贅沢をしたいという目的では無かったので、結果的には、日本に帰り、アルバイトでお金を貯めては、またハワイといった繰り返しで過ごしていました。

そうこうして二十歳を過ぎた頃に、このままでは駄目だから、本当にアメリカに行って仕事をしてみようという決心が固まり、23才の時、アメリカに渡りました。母には旅立つ事前に話してはいたものの、本気にしていなかったらしく、成田を出る時に確認の意味で電話をしたら、ひどく泣かれました。母の中では、息子は遠い土地に行ってしまう、それもジョンウェイの映画のように馬にのってピストルでバンバン打ち合うような世界に…たまったものではなかったでしょうね。(笑)
それでもアメリカ行きは、どうにも止められない自分の強い思いがありました。



■いよいよ渡米、初めて降り立ったアメリカの印象は?
  また、トラブルやエピソードはありましたか?

また、トラブルやエピソードはありましたか?
当時アメリカ、カリフォルニア州ロス・アンジェルス行きのフライトは夜に着く便だけで、着陸間際、オレンジ色に輝く町の夜景が物凄く綺麗に見えて、感動したことを覚えています。

その時の往復航空券が10万円、今では考えられない値段ですね。荷物は背中に背負ったバック・パックの中にジーンズ1本、Tシャツ2枚、それに数枚の下着と靴下。そして当時初めて発売された、唯一FMバンドがはいるナショナルの「旅カセ」というのを買ったらお金が無くなって、
ポケットに残ったのは300$(当時1$280円の時代)でした。

空港内のイミグレーションで言われた第一声は、「お前何をしに来たんだ」でした。
それも、そのはず、荷物と言えば、バック・パック一つで、どう見たってアメリカに来る格好をしてないのだから、仕方がないけど。(笑)

当面の宿として、ロス・アンジェルスの日本人街にレストランを経営している知り合いの所で、
お世話になれることになっていました。
レストラン業は夜の時間が、とても忙しい時間帯ですから、着いたからと行って迎えになど、来てはくれないだろうし、期待もしていなかった。また、来てもらいたいとも思っていなかったのですが、行きかただけを教えてもらおうと、何とか電話の掛け方を掴んで、連絡しましたら、「何とかっていうバスに乗って、何とかっていうホテルで降りるんだぞ」と言われ、そうしたつもりが、どうも全く聞き間違えていて、ダウン・タウンの車庫のターミナルまで行き降りました。

要するにそこは終点で、降ろされたと言うことですね。(笑)最も、運転手のアナウンスが聞き取れなかったことも理由の一つです。

バス・ターミナルの待合室には、ごろごろ寝そべっているホームレスが大勢いました。
私は出で立ちがジーンズとTシャツで、旅行者には見られないものの、見たことも無い奴がいると思われたのか、25セントくれとか、たばこ持っていないかとか、何だかんだ言いながら、ひっきりなしに声をかけられ、近くに寄って来ましたね。恐怖感は無かったのですが、今自分がいる場所が何処なのか、全くわからなくて、電話を探して知人に連絡し、今いる場所の説明をすると、そこはダウン・タウンの一番危ない場所だから、動かないで待っていろと言われたのですが、若かったから、とにかく腹ぺこだし、ここでじっと待ってなんかいられないと思い、住所をたよりにいけば、何とか辿り着くだろうと思い歩き始めました。

そうこうして、目的地には何とか着いたのですが、「よく無事だったなあ」と随分驚かれました。アメリカを良く知る今に思えば、無謀で本当に危険だったとわかります。アメリカに着いて初めて食べさせて貰った夕食が、忘れもしない、『サッポロ一番塩ラーメン』でした。(笑)

そんな状態でスタートして、ホームステイしながら過ごしていましましたが、
三ヶ月間まったく仕事が見つからず、どうしたものかと思ったりもしましたが、結果様々な要因から今に至っています。



■今では日本語よりも英語の生活のほうが、長い稲葉さんですが、始めて実践となったアメリカでの生活で試された英語の力は?

アメリカで最初に着いた仕事はバーテンダーでした。そこには色々なお客さんが集い、カウンターに座ったお客さんは私が対応しなければなりませんでした。
しかし自信はあったものの、やはり何か言われても聞き取れない時があります。その中で、一番辛かったのは、「never mind」という言葉でした。要するにそれは、ああもういいよ!という意味なのですよ。凄く嫌な言葉だなと思いました。一生懸命話して話して、それでもなかなか通じない時に、こんな言葉を言われて、お客さんに諦められてしまうわけです。
こんな辛いことはないと思いました。

それからの日々も辞書片手にバーに入り、言葉がわからない時は、辞書でどれですか?とやっていたのですが、そんな時に出会った典型的なイギリス紳士がいました。その人が唯一最後迄、諦めずに教えてくれ、その時は一番嬉しかったですよ。

そうこうして、言語の違う生活の中で生きて行く為の、英語を学んでいくうちに、「会話」では何の不自由もなく、こなせるようになっていました。
日本に帰ってきて映画等も時たま見ますが、本来の意味のままに、日本語訳されていない場面も沢山あることがわかりました。会話本来の意味がわかるようになると映画も、もっと違う楽しみ方や、見方が出来るかなと思いますね。

私は「勉強」は嫌いでしたから、英語の学力テストをやったら小学生レベルですよ。ただ、会話が出来るかどうかの違いでは、日本の教育で大学レベルの人よりも自信があるかもしれません。度胸だけは人一倍あり、どこでも突っ込んでいっていましたからね。
英語だけに限らず、今の日本について見ても、会話するというコミュニケーションが少なくなって来ているように思います。私の子供の頃と違い、町中を歩いていて声を掛け合うようなことも殆ど無いし、ましてやこちらから声かけると嫌がられるような場面もあります。(笑)
それはちょっと寂しいなあと思います。会話はとても大事だと思いますね。アメリカでは人に物を尋ね、親切に助けて貰ったことが沢山あります。そういった会話をし続けなかったなら、今の自分は無いと思います。



■アメリカで事業を始められたそうですが、立ち上げようと思ったきっかけは?またどんな会社ですか?

自分の名前の頭文字『J』をとって『J-Dreams』という会社名をつけました。
最初は、将来を考えて会社登録しておき、これを何かの形で使えればいいなという軽い気持ちからでした。

最初に手掛けた、事業的な事で言えば、『J-Dreams』の様々な企画の中で、ロス・アンジェルスの日本人街に、斬新な複合ビルを作ろうという構想があって、各フロアーにヘルシー・レストランや健康ドリンク・バー、また昼間は会員制のダンス・クラスやエクササイズ・ジムとするフロアーが、夜はディスコに変身するなど、様々な店を出さないかという企画書を、有力者を集めて提案しました。レストランは一件出店したのですが、アイディアも一部盗まれるような事もあり、一時はうまく行ったにせよ様々なトラブルから結果的にはあえなく失敗に終わりました。

また同じ時期、私の先輩が日本で古着の衣料品店を開けることになり、
アメリカ等に買い付けに来ていたのですが、ドルのレイトが非常に高い時代
でしたので、彼がこちらに来るより、効率面から考えて、現地にいる私に情報や
品物を提供してくれないかという依頼が舞い込んで来ました。
それは彼と私と一対一で始まったような小さな仕事でした。

当時はインターネットも無い時代でしたから、先輩がファックス機の購入代を出して
くれ、私は電話線一つ余分に引っ張ってということで、もちろん在庫もオフィスも
持たなくて良いビジネスでした。
買い付けの内容をファックスで貰って、商品を買いに行って日本に送るということを、月に2・3回、または本業として勤務しているレストランの始まる前の時間を利用して仕事をこなしていました。
最初は100$から500$前後が予備で入金されるといったようなもので、特別な税金など必要無いくらいの規模でした。しかし、これが偶然にもバブル景気というのに乗りまして、大当たりしたのですね。

当時まだ、バイヤーを現地にもって輸入を行なっている会社は少なく、他の会社は日本から直接飛んで来て買い付けしている時代でした。
当然莫大な経費かけてアメリカでの時間を費やすわけです。そこで私は現地コーディネーターとしての仕事に着目し、キャデラックを購入して送迎や買い付けの案内等を手掛けるようになりました。

後に、儲かったお金で船を2隻購入し、「マリナ・デル・レイ」と言うサンタ・モニカの南側にあるマリーナに船を着け、船上パーティーや、ロス・アンジェルス近海での釣り遊び、また有名な海岸線を海側から見せるといった変わった案内もやりながら、どんどんと取引先も広がって、月に100から500ドル程度だった収入が、五千ドル一万ドルと増えて行き、その後も取引高が二十万ドル、三十万ドルの規模に膨らんでいきました。

そんな状態でもファックス一台で、幾人かの人に送迎の手伝いをお願いする程度でこなしていましたが、基本的には自分一人で切り回していたというのが現状でした。知らないうちに、もともとの仕事よりもこちらの仕事の方に比重をかけざるを得ない状況になり、当然日本には挨拶しに行かなければなりません、また時にはシンガポールや、香港などに出向くのですが、殆ど日帰り状態でした。また、日本から取引先が来ると言えば、ラスベガスに招待したりしていました。言い方は悪いですが、あの時のお金というのは、ちり紙みたいな物でした。掴んでは捨て掴んでは捨てみたいな状況でした。
それでも、1000ドル使えば、10000ドルの仕事が、また5000ドル使えば50000$の仕事が入ったりするような時代でしたから。そうなると、ラスベガスの最上階のホテルに1泊1000ドル払ったって安い物でした。ワインが1本300ドル、4〜5人でディナー食べて7000ドルなんてこともあったりして、今では信じられないような事をやっていました。

たった一件オープンした先輩の衣料品店から始まり、あれよあれよと膨らんでいって、事業というより、気が付かないうちにそうなってしまったといのが正直なところです。その後バブル景気崩壊のあおりを受けてしまうことになるのですが、その時は全く予想していませんでした。



■いままでの仕事の中で学ばれたことはありましたか?

正直行って大きく言えばその中で学んだ事は無いと思います。
それは今の結果があって言える事で、勿論、物事を覚える、教わるという意味では大事な事は沢山あったと思いますが、
失敗や挫折があってから学んだことの方が大きいと思います。もしあのままの凄い生活が続いていたら、人間として大切な何かを学ぶことは無かったかも知れません。まだ途中ですので言い切れませんが、おそらくそうではないかなと思います。

順調だった仕事もバブル期が崩壊して、挫折を味わうことになり、白紙に戻った状態から今にかけて学んでいる事の方が、遥かに意味あるのものだと感じています。だからこそ今の自分がいるのだと思います。景気の波に乗っている時には自分で自分のコントロールがつかないまま、日本に行ったり来たりして、30歳そこそこで当時銀座のクラブを2件も3件も梯子するようなとんでもない事を平気でやっていた時には、まったくわからなかった。以前考えていたような「仕事すればお金が入るから安泰だ」と言う発想も間違えでしたし、今迄の人とのつき合いだとか、お金の使い方だとか、今思えば全て間違っていたと思います。もっと正しい使い方があったのではないかと、そのことが本当に解ったのは、全てが無くなってからでした。



■崩壊と共に会社が倒産、その後新会社を設立されるまでには、どういった挑戦があったのでしょうか?

私などより、もっと苦労をされている方は、たくさんおられると思いますから、大変なのは自分だけじゃないと思いますが、その中で一つ一番いい例があります。
世の中の景気が悪くなった時、知り合いに電話をして、「ビジネスはどうですか?」などと訪ねると、「いや〜悪いねえ、大変だよ」という答えが返ってくると、どこかで安心している自分がいました。そこも悪い、あっちも悪いって聞くと、だから自分も悪いのだと自らに言い訳していました。

そんな仲間が集まった被害者の会みたいなものがあり、それは、悪ければ悪い程、人から凄いねって言って貰えるという会でした。私が「来週うちは電気代も払えないですよ」って言えば、「うちなんか、家賃が払えないよ」って。その次の人は、「うちなんか家賃払えない何処じゃ無いよ、昨日燃えちゃったよ!」って話しにまで飛躍し、次から次へと止まらないようなものでした。
暫くして気付きました。「こんな中にいてはいけない、ここから脱出したい」と思いました。
そんな頃、インターネットが市場開放され始め、その可能性にかけて形ばかりの新たな会社「ITN/International Team Network」を立ち上げました。

何か必死でやらなきゃならないだろうと、改めて思って様々な物を3年も模索していた中に、たまたま探し当てたインターネット上の情報で、「ユサナ」との出合いがありました。しかし、その時は、知らぬ知識で、どうせ健康食品かなんかの訪問販売をするのだろうと思い、今自分が探しているのは、即お金に繋がる仕事だったので、その情報は2分くらいしか眺めず、見過ごしていました。しかしその数日後、再度「ユサナ」のHPを訪れることとなり、記載されていた情報を徹底的に調べた結果、挑戦したいという夢に繋がり、被害者の会を脱出するきっかけになって行くのです…



<〜ネットワークビジネスのへの挑戦〜>
ネットワークビジネスについて

■何故ネットワーク・ビジネスを始めましたか?(目覚めたきっかけなど)

きっかけってあるんですね。「ITN/International Team Network」を立ち上げ、色々と仕事をしている中に、日本で健康補助食品の会社を経営している方が居り、その製品をアメリカに輸入する代行業務をしていたのです。健康食品には全く興味が無かったのですが、そのことがきっかけで、前述したように、再度「ユサナ」のホーム・ページを訪れることになったのです。

その時に始めて、詳しく読むことになり、そうしたら、本当に知らない事だらけで、なんて自分はこんなに知らない事があるのだろうと愕然としました。すぐにユサナ本社へメールで連絡を入れてみました。その翌日、Dixie Moore(ディキシー・モア)というシカゴ出身でサン・ディエゴ在住の女性から電話を受けてから、彼女と会って結果的に私がこの『ユサナ』ビジネスを始めるまでには、2ヶ月半という時間がかかりました。その間私が何をしていたかと言うと、通常の仕事をやりながらの合間に、物凄く色んなことを調べました。

主にビジネスの波についてでしたが、自分があまりに世の中の事を知らないことに気が付いてから、今どう言う物が流行っていて、今後どうなって行くのかなどを黙々と調べました。そこで改めてこの会社、製品、そしてビジネス・プランなど一通り調べたのです。自分なりに何十項目も、「このビジネスをやらない反対理由」を書き出し、それを見つけようと調べたのですが、悪い理由がまったく見つからなかったのです。それでやらないって手は無いだろうって思い、やってみようと決めた瞬間、受話器を取っていました。そしてディキシー・モアに連絡をし、「やることに決めたから」と言いました。

翌日、会う事になり、彼女は喜んで私の家の近く迄来ると言ってはくれたのですが、私の中の変なこだわりから、「お互いの中間地点で会いましょう」と提案し、出向いて行きました。忘れもしない良く晴れた美しい青空の日でしたよ(笑)

オーシャン・サイドという町にあるマリーナの桟橋のカフェで会い、挨拶をかわすと、座ってすぐにサインをして、お金を払い、私はすぐに帰りたいと思っていました。何是なら正直いうと、この後何か物でも売られたら嫌だな(笑)ということと、一刻も早く帰って誰かにこの話を伝いたいと言う、ワクワクした気持ちがあったからです。

私は彼女に、「もしかしたら、製品が自分にとって全く価値ある物でなければ辞めますから」と言うと、彼女は満面の笑みで、その通りだと言うのです。自分もそうすると。そして一言「でもジュン。私は、貴方は絶対辞めないと思う」って付け加えました。その言葉の通り、製品は、長い間の非情なストレスによる私の身体にすぐに結果をもたらすことになりました。実はその頃、身体はぼろぼろで、また、自分の足の爪を自分で切れないくらい太っていましたから。
 


■始めて稲葉さんがネットワークビジネスを始めた時の周りの反応はいかかでしたか?

サインをした日の帰りの車の中で、もっとも話しを伝えたいと思った、以前の仕事の仲間に携帯電話で連絡をし「とにかく会いたいから」とだけ伝え、翌日待ち合わせの場所まで、100キロ飛ばしても片道2時間半をドライブして行きました。着くと直ぐに彼は私に、お金を差し出そうとしたのです。「稲葉さんの言う事ならなんでもいいよ」と言って。

私は、「ちょっと待って、そう言うことじゃないんだ、お金が欲しいのでは無くて、このビデオを見て欲しい」と言い、もし君がこのビデオを見てくれないなら、これ以上この話はしないと言いました。そして彼がビデオを見ると言ってくれたので、渡し、すぐに結果を聞きたいからと、また翌日会う約束をして別れました。

すると、翌日彼は、「いやこれは凄い」と言って、その日に参加をしてくれました。しかし、彼のような場合もありますが、基本的にはアメリカにおいても日本同様、ネットワ?ク・マーケティング・システムには、あまり良いイメージを持ってはいない方が多いです。それは、アメリカの歴史の中でも、やはり古くからのシステムやインフォメーションしか無い為に、日本で言われるような反対意見、または拒絶というようなこととほとんど変わらない状況です。
ですが、私にとってはその、反対や拒絶も、意味が解らず受け止めていた為に、何の衝撃も感じませんでした。だから知っている全ての人に声をかけようと思いました。もちろん反対意見もよく聞きましたが、そういうことは、前の仕事の中でもあった事で慣れていたし、くよくよ考えていられない程、何とも思わなかったのが事実です。
 


■ネットワーク・ビジネスをやって行く過程で、思いで深いエピソードありましたか?

パーム・スプリングスという同じカリフォルニアのリゾート地に住んでいる老夫婦がいらして、奥様は、当時抗癌剤を使用され、ご主人は80才近い方で、寝たきりの生活を送られていました。その奥様は、15年くらい前からとてもサプリメントに興味を持っていらっしゃり、ビタミンやミネラルにはとても良い物があるはずだと信じていて、今迄も色々試していたのですが、思うようなものに出会えなかったということでした。

抗癌剤を使用するようになって辛い日々が続いていたそんな中で、私のダウンから話を聞きユサナの代表的なマルチ・ビタミン&ミネラル製品である、エッセンシャルズを試したいとおっしゃったので、私は、お医者様に相談しながら使って下さいということを伝えました。それからおよそ4週間経過した時、私に奥様から連絡が入り、自宅に来るようにと呼ばれました。なんか悪いことでもあったのかなと心配な気持ちで伺ったのですが、そうではなく、抗癌剤がいらなくなってしまったと大変な喜びの報告があったのです。もっと驚いた事に、寝たきりだったあの御主人が、起き上がって、帰る私を玄関迄歩いて送って下さったのです。本当にうれしかったですね。私が嬉しいのは勿論ですが、挨拶をしながら手を握ってくれ見送ってくれたことは、
何より御本人が一番うれしかったのではないかと思います。
本当に印象深い思い出となっています。



■USANAを始めて、これは失敗だったなと思うような事はありますか?

いまも日々失敗は続いていますし、ユサナに参加する前までの人生でも山程あったかも知れませんが、大事件に発展するような事は無く、これといって覚えていないくらいの内容です。
しかし、特にこれは失敗だなと思う事とすれば、それは、参加して最初のコンベンションに行かなかったことですね。

その翌年からは行き始めたのですが、行ってわかったことは、コンベンションに参加する事は必須だなという思いでした。その中で得られるものが、凄くたくさんあるとわかったからです。
参加して最初の年は、一生懸命ではあったものの、どこかで残りの1%くらい、まだ確信を深めていない自分に言い訳をしていたような気がします。できれば取り戻したい時間ですね。
この私の教訓から、これから先、もしネットワークを始める人や、今迄登録はしていても、
会社のイベントや大きな舞台に行かなかった人は是非行って欲しいと思います。
それはイコール皆さんがビジネス活動を続けて行く上で、悔やまれないことに繋がると思います。



■ネットワーク・ビジネス楽しいですか?

私にとって今、このユサナ・ビジネスはライフ・ワークになっています。
苦しい事、うまく行かない事、嫌な事も全部ふくめ、全て楽しい方向に持って行ってしまえるので、公私共に充実しています。
正直なところで言えば、もっともっと自分の中での成長を作り上げる事、またはそれに、沢山の方に賛同して下さることを願って、これからも続けて行きますが、一言で言えば本当に楽しいです。

この仕事は、楽しく無ければ辞めた方がいいと思います。伝えることが嫌であれば、製品を使うだけでいいと思うし、製品が合わないと思うのなら、もっと調べて自分に合った物を見つければいいと思います。また、本業が楽しく無い人は、副業として始めて見て、どちらが楽しいか自分でわかれば、そちらの方を頑張れはいい事だと思いますね。

アメリカでいうホームベース・ビジネスは、家の中にいながら、最小限のリスクで行えるビジネスが多く、半面未知数の可能性をもったビジネスですから、それがやっていて楽しく無かったらそれは嘘になりますよ。勿論収入だけに拘るわけではありませんが、小資本で、サイド・ビジネスから始められて、7桁超え8桁になるかも知れない収入を得られる可能性のあるビジネスなんて他に無いですからね。その事も考えて楽しく無い人がいるわけがないですね。



■稲葉さんは誰にも負けない事、または信念をお持ちですか?

夢ですね。仕事に最初就いた事もハワイに行った事もアメリカ本土に渡ったのも全てが自分にとって夢の実現でした。途中挫折で夢を忘れていた期間が長く、諦めかけていた時から、今またこうして夢が持てたと言う事あります。

多くの方にそれぞれの夢があると思うので、そこに勝ち負けは無いと思います。だから自分で自負することではないかもしれませんが、固い決意と、継続はあります。性格的なことで言えば、もともと明るく、人と接することが好きで「一期一会」を大切にしています。相手がどう思うかはわかりませんが、自分の中では、出会う人達を大切にしたいと言う思いが常にあります。

また、包丁をもって料理を作るのが大好きで、アメリカではパーティーに招かれると、蕎麦打ちなんかもやってしまいます。日本にいる時は、おせち料理を作ることが恒例になっていますから、今年も楽しみの日が近付いてきました。これも毎年の自分の夢のひとつです。包丁を持てなくなったら、一つ夢を無くすようなものです。レストランを出すつもりは、今はもう無いですが、いつか機会ができたら、自分ひとりだけの店をやってみたいですね。利益に関係なく、好きな物だけ作って、全部これ100円でいいよって。(笑)



■自分の中の炎が燃え上がる時はどんなときですか?

このビジネスを伝えている時は、特に熱くなる瞬間ですね。さらに相手の方の、「この面はどうか、あれについてはどうか」という問いかけに、できる限りの自分の情報を持って紹介し、説いて行く時は、炎が燃えていると感じます。

勿論、それから後にずっと大切なことが待っているのですが、わかりやすく熱い瞬間ではありますね。また、違った方面から言うと、感謝されたときにそれを感じます。景気の良かった時代に受けた感謝と言うのは、どちらかと言うと、お金の面でしたが、このビジネスにおいて出会った方が言って下さるお礼は、心の中からの素直な気持ちと、強く感じます。一言「ありがとう」と言われるだけで、心の中がぐっと、熱くなります。



■メンバーとのコミュニケーションはどうとっていますか?

情報は遅いより、早い方がいいですから、インターネットの環境を持つ人にはメールでやりとりもしますし、無い方にはファックス、または定期的なカンファレンス・コール、そして、私自身が持っているメンバー向けのWEBサイト、また、世界中にいる広がるメンバーへのメール一斉配進も行ないます。ユサナ・センターでセミナーも行なっています。以前はバックを持って方々に行っては、ミーティングをしていましたが、今は会社もオープンし、サポートも安定して来ましたし、製品も行き渡りましたから、リーダーの皆さん自身がそれを使って、各地でセミナーを展開して下さっています。会社の環境が整って来ていますので私自身がそれ程、出向くと行った事は少なくなりました。ビジネスをする方というのは、やはり進んで自分から学ぼうとしますし、自らがリーダーシップを取ってビジネスを展開して行く。それらに必要なトレーニングや、サポートの充実を私や、私のアップたちは取り組んでいます。そうでないと、基本的なビジネス構築にはならないのでは無いかなと思います。



■現在どんなグループづくりを目指していますか?

変な言い方かも知れませんが、私から見たグループづくりということでは、特別なことはありません。何故なら、参加された時点で、その方達がどう考えているのかを聞いているので、それを大事にしています。勿論やって行く中で気持ちの変化もあるでしょうが、単純なことですが、みなさんが望む形で、結果なりを出して欲しいということであり、私の気持ちは、みなさんが思うような結果を出せるようサポートすることです。またそれに対するサポートをすることですが、私がコントロールして、実際どういう方向性にするかどうかのことではないと思うのです。

私が社長で、みんなが社員だったらそれでいいと思いますが、一般で言う雇用関係は何も無くそれぞれが事業主である以上、それぞれの方が、自分が出来る形の中で、『ユサナ』を通して、展開して行くことがベストになると思います。私の中では、あくまでも特別な事ではなく、この短いユサナ十数年の歴史の中で、いわいる成功者に到達した方々の方法、考え方、またシステムを十分に理解して頂き、それぞれのゴールへ向かう道案内は考えてはいますが、実際にそれを押し付け、私のグループだからこうしろという事はないですね。ただ最初に自分が伝え方を間違えれば、皆それを学び真似ますから、自分自身の取り組む姿勢や、日々の学習が一番大切ではないかと思います。そして、クロスラインも含めユサナ全体でメンバー?同志、助け合って行く事も凄く大事な要素ではないかと思います。



■現在ボラアンデイアにもお力を注がれていると伺いましたが?

前の話のように、大金を稼いでいる時には、寄付をしようなんて発想はまったくありませんでした。ユサナ(稲葉さんが現在取り組まれているネットワーク・ビジネス)でもCHF.(Children Hunger's Fund)というロス・アンジェルスに本社を置く、救済会社等と提携してメンバー向けに募金活動支援を行っています。私もそこに協力し、またその他自分なりにも動いています。そういう方面に目が行くようになり、また大切さに気付いたという事も一旦全てを白紙になったからだと思います。そいう意味でも40才を過ぎてから現在に至る迄の方が学んでいますね。



■今の夢はなんですか?また活動の中で、今後挑戦したいことは?

一番の夢は経済的な自由ですね。支払いの事などにおいて何も心配ないという
安定した環境はうれしい事ですよね。
ビジネスにおいての挑戦と言うことで言えば、成功したい為にどうするかと言った時に、
例えば「一日10人に電話をしています」とか、「100人のリスト作ります」などは、
あえて言うような事では無く、やらなくてはならない事の一つだと思えば、
大きな意味での挑戦、またはその先にあるゴールというのは、
当然、経済的な自由という結果を自分に預けられたビジネスになります。

もう一つの違うチャレンジは、創始者であるドクター・ウェンツ氏が言う、
「世界中の人々の苦しみや痛みを無くしたい」願う理念・ビジョンを
是非とも一人でも多くの人に伝えて行きたいと思っています。
それは決して『ユサナ』に入ってくれという事では無く、また、
製品使わなくちゃだめだというと言う意味でもなくて、自然による災害や、
悲惨な事件を見た時に、そう言う中で、何か一つでも、自分が役に立てる様な事をしたい
というのが私の挑戦かなと思います。

『ユサナ』が拡がって行く事だけを考えるのでは無く、人々も彼のビジョンを通して、
そういった心深い思いが伝わり、皆に広く伝わってくれるような事になってくれれば
いいなと願うのが、今の私の正直な気持ちです。


スキンケアsens'e
発売記念パーティー
の様子

〜番外編〜
お薦めの書籍は:

(オリジナル)The Next Trillion/Paul Zane Pelzer、(邦題)健康ビジネスで成功を手にする方法/ポール・ゼイン ピルツァー

そして「The Power of Focus」Jack Canfield, Mark Victor Hansen, & Les Hewitt 著です。



影響を受けた書籍は:

Multiple Streams of Income/Robert G. Allen著(これはその後米国、そして日本で発売された、「億万長者入門(邦題)」の前進に当たるもので、私が参加した当時ユサナ社のツールとして販売されていたものです。因みに、1冊の本ですが2部構成になっていて、もう一つのタイトルが「Your Health Is In Danger!」と言います。
 
そして最も影響を受け、その後ビジネス面で尊敬(目指す)するべき人物となるRandy Gage氏の本は:
「How to Earn at Least $100,000 a Year in Network Marketing」、そして「Escape the Rat race」というオーデイオ・テープです。

また尊敬というより、その人のビジョンに賛同している、そうですマイロン・ウェンツ博士の本:
Invisible Miracles/Dr. Myron Wentz



■尊敬する人は?

ウェンツ氏は、勿論尊敬する人ですが、身近におられる方で無いので、別格とさせて頂きます。
家族や親は一番で、これは前提ですが、別の意味で、このビジネスに出会って、白紙の状態から再スタートしなおした自分の中で言えば、わたしのアップ、ディキシー・モアです。そして彼女のアップである、Dan & Nancy Christy(ダン&ナンス クリスティー夫妻)、そして、目指す目標の人物として、Randy Gage氏ですね。
 


■これからネットワーク・ビジネスに挑戦する人へのメッセージをお願いします。

ネットワーク・ビジネスをされている方には、一般的な言い方かも知れませんが、
諦めないで取り組んで欲しいと思います。また過去思うように行かなかった人は、その時の失敗を活かし、新たな挑戦に望むための再調査もまた無駄では無いでしょう。

情報時代ですから、幾らでも調べる方法はあるとおもいます。とことん納得が行く迄調べた上で、答えを出して下さい。生半可な気持ちでは無く、一つの決意を持って真剣に取り組める会社を探し、
諦めないで続けて行って下さい。隣の庭の芝生が青く見えるが如く、あっちこっちへフラフラする人も中にはいるようですが、決して良い結果は得られないのでは無いかと思います。そして初めてネットワーク・マーケティング・ビジネス情報を聞いた側の人も、頭からはね除けないで、その情報は、良いのか悪いのか、しっかり調べて自分なりの答えを出される事をお薦めします。



■ インタビューを終えて

誰もが一生の内に一度は未来予想図を描く。
願わくば誰もが自分の思い描いたように進みたい。
そのために日々黙々と歩き続けるが、そこには数々の挫折がある。
けれどそれは、挑戦する者の前だけに現れる、成功へのルート。

彼の中に「ダメかもしれない」という言葉など微塵も無い。
夢を描く力、それが原動力であり、彼の生きかたそのものなのだろう。

少年のような彼の瞳の輝きが、その事を物語っていた。
あの頃のまま、今も変わらぬ方向を見つめて。

貴方のその、世界に愛を注ぐその情熱は、これからも変わる事無く、
熱く燃え続けていくのでしょう。
同じ思いを描く同志と共に。。。。


本当に素敵な方でした。
貴重なお時間をこのコーナーの為に、費やして下さいました事に、心より感謝申し上げます。

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ネットワークビジネス・ ライター
interviewer & editor
Eiko Ishisone
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